呉竹の視座

給油新法について

呉竹太郎(平成20年1月15日)

57年ぶりの衆議院再可決によって「給油新法」は成立しました。

なんとこのことの為に二度も国会を延長して越年国会になった訳ですが、もともとは安倍前総理の辞任劇による政治空白によってもたらされたものであり、そのことが既に忘れられがちですが、外交防衛委員会での論議を聞いている限り、日本にとって「日米同盟とは何か」「国際貢献とは何か」実にあいまいなまま自民党も民主党も向かい合って来ているような気がしてなりませんでした。

自民党にとってアフガニスタンでの給油活動は、欧米諸国のように上陸をして治安維持の貢献を図ったり、民生支援の直接行動をとったりすることはなく、ただインド洋上の「安全な地域」でひたすら油を給油しているだけで国際貢献をしていると認識している時点で、「それがほんとうに国際貢献なのか、ドイツやフランスなみの支援活動をしなくていいのか」という問いかけには繋がらない。

また、民主党にとっては「国連の決議」があれば欧米並みの支援も可であるとこれまでの憲法論議を超えた見解を小沢代表が語っていますが、それは現時点では不可能なことであり、だとすれば結局アフガニスタンへの支援活動を全くしないことになってしまうことへの「代替案」が見えないということに無頓着すぎるのです。

つまり、両党の姿勢から感じることは「都合のいい」日本の立場をばかり考えているだけで、アジアやアフガニスタンの将来に対して、真剣に平和国家として何かをしなくてはならないという議論が何もないことである。

それはあたかも、日本国憲法の9条が平和の象徴であるかの如く錯覚し、実際はアメリカの核の傘に守られて戦後の平和が保ち得て来たと言う単純な現実を見ようとしないのと同様で、自民党も民主党もリアリズムに欠いた外交防衛への感覚にあると私は思うのです。

せっかくアフガニスタンにはアメリカに次いで資金提供をしているのですから、もっと日本独自で民生支援を徹底するなどたとえアメリカと共同歩調がとれなくても、顔のある平和貢献を進めるべきであり、日本は「国家」として自らの「国家戦略」を持ち得ていないことをもっと猛省すべきなのです。

残念ながら、いつの間にか自民党も民主党も全く内向きの内政政党になってしまっていて、憲法論議や「戦後レジームの打破」というスローガンも何処かへ消えてしまいました。

七日に経済三団体と連合の新春の集いで行われた福田総理の演説には日本の国家像が全く見えず、日本が何処に行こうとしているのかさっぱりわからない話ばかりでした。総理という日本国を代表する指導者であるにもかかわらず識見のかけらも感じない実務家の弁に過ぎず、私は強い失望を禁じ得ませんでした。

対する民主党も三大政策が農家への所得補償、年金、子育て支援とばらまき的なことばかりで、外交防衛や歴史への視座などが見えません。政権交代というけれど民主党の目指すべき日本の姿かいったいどんなものかいっこうにわからないのです。

何故、他国の政治家に比べて日本の政治家の演説は格調が高くないのか。ほとんどの政治家の演説に深みや説得力を感じないのです。

少なくとも55年体制まではそれなりに存在感のある政治家がいたような気がしますが、今ではそうした風格を感じることがないのです。これは実に憂うべきことです。

昭和が終わって20年目。日本はますます困難な舵取りを求められ、改革の速度をもっと早めて行かなくてはならない局面に在ること誰もが認めるところです。にもかかわらず、自民党にも民主党にも危機感を抱いているような気魄が伝わってこないのです。

給油新法が緊張感なく通過し、民主党はそれを身体を張って阻止する訳でもなく、三月の予算時期に決戦を譲るといけれど、結局はほんとうに徹底的に反対するというよりも、党利党略の必要かお反対をしてきたに過ぎないのではないのかとすら思えるくらいです。

かくて、臨時国会は会期を終え、すぐに通常国会が始まることになりますが、年頭にぜひ両党に臨むことは、「国家の百年の大計」をもっと真摯に語り、日本の未来への青写真を提起して欲しいということであり、生活に密着する問題も確かに大切ですが、それを左の軸とするならば一方で、日本の国家像を論議することを右の軸として、両輪が動くようにして欲しいということです。