近代日本史

近代日本史の正視(5)東京裁判について

はじめに

毎年8月になると靖国神社への総理の参拝の是非が問われますが、その論議の根底にあるのが「A級戦犯の分祀論」です。

今年は小泉総理の8.15参拝によって25万人の人たちが靖国神社に訪れました。中国や韓国からは侵略者を賛美する行為だとして盛んに喧伝され、それに連動するマスコミのほとんどが、戦後日本のスタートは戦争犯罪を断罪した「東京裁判」を受け入れて独立をしたのだからそれを否定できないのだとの「呪縛論」を展開し、分祀が当然であるかのような主張がまことしやかに合唱されています。

しかし、「A級戦犯」と決めつけて語っている人たちは、東京裁判が今の時代になってもほんとうに正しい裁判だったと言えるのかどうかについて、きちっと検証してみたことがあるのでしょうか?

何かの調査で「東京裁判を知っていますか?」と街頭でアンケートをとってみると、知っていると答えられ人は20%くらいだったそうで、60年という還暦に匹敵する時代の流れの重さをしみじみと痛感するばかりですが、どんなに抗って見ても戦争体験は限りなく風化し、戦争経験のある世代は確実に消えていきます。

戦争の悲惨さを涙ながらに訴えて見ても次世代にとってはそれを実感することは決して容易なことではありません。それは当の大東亜戦争の体験者でも戊辰戦争や日清、日露戦争に感情移入をして思いを致すのが困難なことと同様なのです。

だからこそ「歴史としての正しい認識」が求められる訳ですし、感情論ではなく、また現代の倫理観をもって断罪する安易な姿勢でもなく、ましてや意図的に反日論を展開する自虐史観でもなく、時代の背景を充分に斟酌した上で、歴史としての認識の深化こそが必要とされているのです。

そこで、ここではもう一度客観的に東京裁判について見直しを進め、考察を加えておきたいと思います

東京裁判とは何か

東京裁判とは、日本が満州事変を起こした前後からの17年間の戦争で犯した「国際法違反」を問題として、当時の戦争指導者の責任を市ヶ谷の極東国際軍事法廷で断罪した裁判のことを言います。

裁判官はアメリカ、イギリス、中国、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド、インド、フィリッピンの11名でした。

1946年5月3日に28名が「平和に対する罪」「人道に対する罪」で起訴され、2年半に及ぶ423回の審議が進められました。その間、2名が公判途中で病死、1名が精神病を病んでいるとして免責となり、1948年11月4日に絞首刑7名、終身禁固刑16名、有期禁固刑2名の判決が言い渡され、16名が裁かれたのでした。

同年12月3日、巣鴨拘置所にて絞首刑が執行されましたが、そのいずれの立場の人も、「日本国民に対して戦争を主導した責任」は充分認めて従容と死んでいきました。

そのため、講和条約や国会決議などで戦犯の名誉は法的に回復され、1978年になって刑死の7名と服役中に亡くなった5名、公判途上の病死の2名をあわせた14名が靖国神社に合祀されたのでした。

それが今日「A級戦犯」として問題になっている訳です。

起訴された28名の人たち

荒木 貞夫(68)犬養内閣陸軍大臣 満州事変を推進、国連脱退を主張、皇道派陸軍大将
土肥原賢二(62)陸軍大将 満州事変立役者の一人 溥儀誘い出しの謀略 北支分離政策
橋本欣五郎(56)陸軍砲兵大佐 桜会を結成して三月事件、十月事件 衆議院議員
畑  俊六(66)元帥 阿部、米内内閣陸軍大臣 中国派遣軍団の総司令官
平沼騏一郎(78)検事総長 国本社総裁、枢密院議長 日独伊三国同盟交渉時の首相
広田 弘毅(68)外交官 斉藤、岡田内閣外相 首相 日中戦争で強行路線 玄洋社
星野 直樹(54)満州国務長官 東条内閣書記官長
板垣征四郎(61)陸軍大将 関東軍高級参謀 華北一帯の植民地化を進言 朝鮮総督
賀屋 興宣(57)近衛・東条内閣大蔵大臣 貴族院議員 大東亜共栄圏を財政的に支える
木戸 幸一(56)天皇側近 内大臣 近衛・東条を首相に推薦
木村兵太郎(57)陸軍大将 関東軍参謀長 開戦時の陸軍次官、ビルマ方面軍司令官
小磯 国昭(65)陸軍大将 関東軍参謀長 朝鮮総督 戦争後半の首相 三月事件
松井 石根(68)陸軍大臣 上海派遣軍司令官 中支派遣軍司令官 南京虐殺
松岡 洋介(66)満鉄総裁 近衛内閣外相 日独伊三国同盟締結 対米英強硬派
南  次郎(71)陸軍大将 陸軍大臣 関東軍司令官 朝鮮総督
武藤  章(53)陸軍中将 開戦時の軍務局長 国策決定に大きく関与
永野 修身(65)元帥・海軍大臣 開戦時軍令部総長 真珠湾攻撃最高責任者 途中病死
岡  敬純(56)海軍中将 開戦時の海軍省軍務局長 海軍次官
大川 周明(60)アジア主義思想家 大東亜戦争の理論武装 国民扇動 5.15武器調達
大島  浩(60)陸軍中将 駐独大使 日独伊三国同盟を推進 アメリカに勾留
佐藤 賢了(50)陸軍中将 開戦時軍事課長 開戦後軍務局長 東条を支える
重光  葵(58)駐華大使 東条、小磯、東久邇内閣外相 大東亜会議開催 禁固7年
嶋田繁太郎(62)海軍大将 支那方面艦隊司令長官 開戦時の海軍大臣 軍令部総長
白鳥 敏夫(58)駐イタリア大使 米英協調路線を拒否 日独伊三国同盟締結
鈴木 貞一(57)陸軍中将 近衛、東条内閣国務相 企画院総裁 軍需物資需給計画策定
東郷 茂徳(63)開戦、終戦時の外務大臣 宣戦布告なき奇襲の責任を問われる
東条 英樹(61)陸軍大将 日中戦争勃発時の関東軍参謀長 近衛内閣陸軍大臣 首相として対英米戦争を決断 サイパン島占領時に首相交代
梅津美治郎(64)陸軍大臣 関東軍司令官「梅津・何応欽協定」参謀総長 降伏文章調印

28名への起訴状は「3類55項目」の訴因

第一類 平和に対する罪 1~36
期間 1928年1月1日から1945年9月2日まで
対象地域 満州、中華民国、東南アジア、太平洋、インド洋各地域
各被告は、右の期間にわたり右にあげた地域を支配しようとして「共同謀議」を行った。

第二類 殺人及び殺人の共同謀議の罪 37~52
南京や中国各都市で一般人や武装解除された兵員に対する殺害
宣戦布告なき真珠湾奇襲やマレー半島コタバル上陸作戦

第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪 53~55
各国の軍隊と捕虜と一般人に対する戦争法規慣例違反

キーナン検事の冒頭陳述

「日本が行った戦争は、文明、それも人間の自由と尊厳に基礎を置く、民主主義文明に対する挑戦だった。…相対立する思想理念の衝突は、一切、世界の戦場において決せられたのであって、今やなんら議論の余地はない。
またわれわれは相互不信、悪意、また憎悪の念を抱いてここに集まったわけではない。むしろ戦勝国と戦敗国とを問わず、人類のより高き威厳に到達せんことを祈念するのであつて…、人類の威厳とその最も尊重する念願-すなわち自由、寛容、正義に対する念願-の実現を志す世界が出現することを期待する」

裁判を受けずに自決した人たちは300人近く

阿南惟幾陸軍大将  「一死以て大罪を謝し奉る」
大西瀧治郎海軍中将 「いずれ俺も行くぞ」
杉山元元元帥     東条逮捕の翌日に自決
本庄繁元関東軍司令官 逮捕状が出た翌日に自決
近衛文麿元首相    青酸カリで自殺

天皇の戦争責任について

アメリカでは、ヒロヒトとトウジョウが侵略国日本を代表していた。天皇の停戦命令による降伏と武装解除にマッカーサーは驚いた。

1946年1月25日にアイゼンハワー陸軍参謀総長に「天皇が戦犯であるという明白な証拠は発見できなかった、もし天皇を戦犯裁判にかければ日本人は激しく動揺し、占領政策もうまくいかないだろう。最小限100万の軍隊と数十万の行政官をアメリカから派遣し、何年にもわたって駐屯させる必要が生じるだろう」と送電している。

アメリカ政府はこの報告を了承して、天皇無答責として臣下が責任を負うとの認識で、天皇不訴追を決定。被疑者に天皇をリストアップしたのはオーストラリアだけだった。

そして、4月3日には極東委員会が追認。

マッカーサー元帥の意向を受けてキーナン検事は東条に天皇の意思に反して米英との戦争に踏み切ったと証言させるように米内と神埼弁護士に根回ししていたとされています。

クイリアム検事(ニューシーランド)「天皇の聖断が終戦の時に下せたのなら、開戦の時にも下せそうなものではないか」
米内「天皇陛下は内閣総理大臣が内閣一致の意見として奏上することには普通ご反対にならないことになっている」

ところが、東条は「臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ぬこと」と答え、
ウェッブ「あなたは、ただいまの回答がどういうことを示唆しているかおわかりでしょうね」
と言って途中で法廷を切り上げ、東条に再度根回しをした上で開廷、
キーナン「その戦争は…裕仁天皇の意思であったのか」
東条「…しぶしぶご同意になったのが事実です。平和ご愛好の精神は最後の一瞬まで御希望を持っておられました。」
と証言して天皇不起訴が決まったと言われています。

東条は弁護士には「陛下の御裁可があったからこそ開戦したのです。私は死を覚悟している。臣下として一天万乗の君のご命令にそむいて、この戦争をはじめたなどと嘘の証言をして。それで死にきれますか」と反論していたので、先の言葉になったそうです。

虐殺事件について

東京裁判で報告された、日本軍が占領期間中の2年半にわたって行った残虐行為の数々は1万4618頁にものぼる詳細をきわめたものだったと報告されています。
そこには、「戦争犯罪による犠牲者」14万2076人約8万人の米比軍将兵、抗日ゲリラのフィリッピンでの犠牲者は約100万人。バターン死の行進 南京事件は数千件にのぼる人名・日付・場所が列挙。タイのノンブラドックとビルマのタンビザヤ間415キロの鉄道を1942年に着工し1943年10月には開通させたが、建設に動員されたのが連合国の捕虜5万人と、各地の住民10万から25万人。捕虜の使役を禁じたジュネーブ協定違反と捕虜や占領地国民に加えられた虐殺、虐待として列挙されていました。
しかも「捕虜の27%、強制的に募集したアジア人兵士部隊の半数以上が死亡した」との報告になっているのです。

「原爆を投下した国家が日本軍の残虐行為を裁けるのか」弁護人の一人が発言しました。
「広島、長崎への原爆投下は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止している兵器である」それに対して「原子爆弾の使用は、それによって日本を屈服させ、恐るべき戦争を終わらせたのであるから正当だった」とフィリッピンのハラニーヨ裁判官
「…連合国によってなされた原子爆弾使用の決定への判決は後世が下すであろう」インドのパール判事 しかし、「本裁判にどんな関係がありますか?」と多数決により却下された。

ヤルタ密約によるソビエトの参戦

1944年12月にヤルタ会談を開きソ連参戦を承知する。千島列島のソ連領化。
1945年8月9日に174万人の大兵力で満州に侵攻。9月5日まで侵攻を続けて北方領土を占拠。ゴルンスキー検事はスターリンの指示で長鼓峰事件とノモンハン事件を日本の侵略として弾劾、日露戦争まで言及した。日本軍将兵65万人を連行するも「復員対象の日本人はソ連領内にいない」と白をきって法廷では問題にならなかった。

日本側弁護人の反論

平和に対する罪、人道に対する罪で極東裁判所が裁く権限はないことを指摘するとともに、満州事変以来の日本が行った戦争はすべて「自衛のための戦争」であり、侵略戦争ではなかったと主張(清瀬弁護人)。
満州国建国は住民の自発的運動であり、共産主義の脅威と非現実化した九カ国条約への対応でした。日独伊三国同盟は日米戦争を予期して締結したものではなく、日米の戦争を避けることにありました。
1941年以前の日本の軍備はすべて防衛的であり、委任統治領を要塞化したこともありません。1937年以来心ならずも中国との間に戦争も比すべき大きな闘争状態になったが、第三国においては当然この特殊な状態をご承認くださるものと期待していました。
1939年12月 飛行機その他の装飾品、組み立て機械やガソリン精製の機械を輸出禁止措置。1940年には屑鉄の輸出禁止、同年8月には航空用ガソリン輸出制限。アメリカは重慶政府に武器供与し強力に蒋介石を支援。
同年12月には米国太平洋艦隊の主力をハワイに集中し対日示威をした。
1941年に米国政府は我が国の在米全資産凍結。これは我が国の仏印への平和派兵を誤解しての措置である。英国、蘭印も直ちに之に倣った。日本国民の不可侵の生存権はここに奪われ、自衛権成立の基礎的事実が充分に完備された。
日本の平和への真摯な願望は遂に結ばず、1941年12月1日の米国の通告(ハル・ノート)によって自衛権の行使を為すのやむなきに至ったのであります。

被告28名のそれぞれの対応

2名は個人反証の段階で死亡→ 松岡外相、永野海軍大臣
1名は精神錯乱にて審理から外された→ 大川周明
9名は証言拒否→ 土肥原、畑、平沼、広田、星野、木村、佐藤、重光
16名が証言台に立った。

「日本は満州を侵略したことはありません」東条英機
「日満支ブロックの経済自給自足を達成する…東亜生存の基本」橋本欽五郎
「満州事変に反対。自衛のための戦争とは言えない。東条を首相にすることで米国への影響は好転すると考えた」木戸幸一
裁判の対象外となった軍人→ 石原莞爾陸軍中佐 東条批判で開戦10ヶ月前に予備役となり、民間人だったので石原のデーターがほとんどなかった。「満州事変の中心は自分である。何故私を戦犯として逮捕しないのか不思議である」

判決 1948年11月4日

「日本が1941年12月7日に開始したイギリス、アメリカ合衆国及びオランダに対する攻撃は、侵略戦争であった。…諸国が日本の貿易を制限する処置を講じたのは、侵略の道から日本を離れさせようとして講じられたもので、まったく正当な試みであった。

…自衛戦争だったとする被告の主張は、実に日本が侵略戦争の準備をしているときに発表した日本の宣伝を繰り返しているに過ぎない。…侵略戦争を遂行する共同謀議は、既に最高度において犯罪的なものであった。本裁判において提出された証拠は…拷問、殺人、強姦及びその他の非人道的な野蛮な性質の残虐行為が、日本陸海軍によって思うままに行われたことを立証している。

南京事件…日本軍が殺害した一般人と捕虜の総数は20万以上であったことが示されている。…虐殺の地名を70箇所以上明記した。…バターン死の行進では移動中にアメリカ・フィリッピン人合計で8000人、収容所到着後の半年間に27500人以上が死亡した。秦緬鉄道建設では…16000人が死亡。現地労働者…60000人が死亡した。日本政府は捕虜と一般人抑留者の虐待を黙視した…」

11人の裁判官のうち5人の裁判官が少数意見を書いた。

ウェッブ判事(アメリカ)→死刑は全く報復的だと反対した。
レーリンク裁判官(オランダ)→東京裁判は太平洋戦争に限定すべき。
ベルナール裁判官(フランス)→判決に反対 侵略戦争は自然法によって根拠とすべし。
ハラニーヨ裁判官(フィリッピン)→全員死刑の要求
パール裁判官(インド)→被告全員の無罪を論じた。

「極東軍事裁判の設置そのものに疑問がある。侵略戦争に対する定義が定まっていないし、平和、人道に対する罪は事後法であり、戦争における個人の責任を追及することを否定した。共同謀議が完全に立証されていない。
中国における日本の軍事行動が本格化し、占領地が増えるに従ってアメリカもイギリスも中国への援助を強化していった。両国は日中両国の紛争に中立を守らなかったわけだから、既に日中戦争時代から日本と米英は紛争状態にあったのだ。
 今次戦争について言えば、真珠湾攻撃の直前に米国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対して矛をとって立ち上がったであろう」
                 パール裁判官

BC級戦犯に対する軍事裁判

中国、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア、フランス、フィリッピンの7ヵ国計49法廷で実施され、その他ソ連と中華人民共和国でも行われた。

中華民国
  瀋陽、北京、上海、南京、台北など10箇所
  起訴833名、死刑149名、無期刑83名、有期刑272名
  南京虐殺では第六師団長ら4人が死刑になった。

イギリス
  シンガポール、マレー、香港、北ボルネオ、ビルマで軍事法廷を開く。
    起訴978名、死刑223名、無期刑54名、有期刑504名

オランダ
  ジャカルタ、メダンなどインドネシア各地の12箇所で軍事法廷が置かれた。
  起訴1038名、死刑236名、無期刑28名、有期刑705名

オーストラリア
  ラバウル、ダーウィンなど5箇所で軍事法廷を開いた。
  起訴949名、死刑153名、無期刑38名、有期刑267名

フランス
  ランソンでフランス軍捕虜300人を殺害した部隊や、憲兵隊の拷問、虐殺。
  起訴230名、死刑63名、無期刑23名、有期刑112名

フィリッピン
  マニラ大虐殺 山下奉文陸軍大将 死刑 本間雅春中将 銃殺刑。
  起訴169名、死刑79名、無期刑23名、有期刑112名

横浜
  岡田裁判、名古屋大空襲で撃墜されたB29搭乗員38人を斬首した。
  捕虜にしたB29搭乗員を九州大学で生体解剖した。花岡事件、石垣島事件など
  起訴1037名

BC級戦犯の死刑判決は934人、刑死者は911人、終身・有期刑判決は3413人にのぼった。A級戦犯のみならず、日本人はアジアの至る所で裁判にかけられ裁かれたのである。

絞首刑 1948年12月23日

東条英機元首相,板垣征四郎陸軍大将,土井原賢二陸軍大将,松井石根陸軍大将,木村兵太郎陸軍大将,武藤章陸軍中将,広田弘毅元首相。
巣鴨で7人が執行された翌日、GHQはA級戦犯容疑者(岸信介、児玉誉士夫、笹川良一等)を釈放し東京裁判を終了すると発表。

東京裁判をどう見るべきか?

東京裁判の概略を記述して来ましたが、その後この「史実」がどのように受け止められて来たのでしょうか?

アメリカの下院ではこの裁判は正当だったと決議されている記録があるそうですが、多くの関係者から疑問が提出されていることも事実です。

実際に、東京裁判はほんとうに公平な裁判であったと言えるのかどうか?
勝者による一方的な裁断ではなかったのか?
侵略を規定する国際状況がまだ固まってはいない時期の戦争ではなかったのか?
アメリカの対応によって日本を暴発するように追い込んだのではなかったのか?
原子爆弾を使用し、無差別爆撃を行ったアメリカに戦争責任はないのか?

などと様々なレベルで疑問がつきないのが現実です。

さしあたって、いろいろな識者の発言を参考にしたいと思います。

○「勝者による敗者の裁判は、どれほど司法的な体裁を整えてみても、決して公正なものではありえない」ロバート・A・タフト上院議員

○「私は、起訴状の…いまわしい事件の多くをよく知っていたけれど、本能的に私は全体として裁判をやったこと自体が誤りであったと感じた。当時としては国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために、勝者が敗者を裁判するというような理論に賛成できなかったのだ」ウイリアム・シーボルト総司令部外交局長

○「極東国際軍事裁判所は、…国際法に基づいて審査できる自由かつ独立の裁判所ではなかった。同裁判所は司法的な法廷ではなく、政治権力の道具に過ぎなかったのである」アメリカ連邦最高裁判所 W・O・ダグラス判事

○「日本は、絹産業以外には固有の産業はほとんどないのです。それらの一切のものがアジアには存在していた。これらの原料が断ち切られたら…彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んで行った動機は大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」ダグラス・マッカーサー元帥

○「この裁判は歴史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので自分の息子には軍人になることを禁じるつもりだ。…日本が置かれたと同じ状況にアメリカがあったら、日本と同様に戦争に訴えたに違いないと思うからである」GHQ参謀第二部部長 C・A・ウィロビー将軍

○「日本人に損害を受けて怒りに燃える偏見に満ちた連合国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。戦争を国策の手段とした罪などは、戦後につくりだされたものであり、リンチ裁判用の事後法としか思えなかった。」戦犯リストを作成したGHQ対敵情報部長 エリオット・ソープ准将

○「極東国際軍事裁判所条例は決して国際法を規定したものではなく、また戦争犯罪というものを規定したものでもない。ただたんに裁判にかけられた僅かな人たちを裁くためにのみつくられたチャーターだった」イギリス モーン卿

○「平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力を持っていた国際法にもとづくものではなかった。戦争禁止の違反について刑法上の制裁も存在しなかったるその限りにおいて条約は事後法である」西ドイツ・ルール大学学長 クヌート・イプセン教授

○「日本が連合国の経済封鎖を以って直ちに宣戦布告に等しきものなりと解釈することなく、平和的解決を交渉によって忍耐強く追求したことは、永遠に日本の名誉とするに足るところであります。…大東亜戦争は不当の挑発に基因した国家存立のための自衛戦争だったのであります」「日本には20年間一貫とした世界侵略の共同謀議なんて断じてなかった。起訴事実は全部無罪である。」ウイリアム・ローガン弁護人

○「日本がアメリカを戦争に追い込んだというのは歴史の狂言である。真実はその逆である。アメリカが日本を真珠湾に誘い込んだと見るのが正しいのだ」英国 軍需生産大臣 オリバー・リットルトン

○「普通の情報を与えられている人は誰でも、日本が卑劣な奇襲攻撃をかけたと信じないものはなかった。だが政府中枢部では攻撃は実際上欲せられていた。政治的理由から最初の攻撃が相手から加えられることを望んでいた。…日本はアメリカ大統領によってアメリカを攻撃することにされていた」イギリス ラッセル・クレンフェル海軍大佐

○「米国を主とするABCD諸国は、日本を生き埋めにしようとハル・ノートで喧嘩を売りつけたのである。日本は喉元に刺された匕首を払うために、つまり生き抜くために戦ったのである」東方工商専科大学学長 許 國雄

○「東京法廷は真の国際法廷ではない。あれはマッカーサー元帥個人の裁判所である。東京裁判はマッカーサー元帥のための事実審議機関であって、最終の決定は元帥にかかっていた。法廷は署名されていない口述書、宣誓されていない声明、新聞報道、二流、三流の伝聞証拠を受理した」ディビット・スミス弁護人

○「第二次世界大戦が始まった期日まで、国際社会においてはいかなる戦争も犯罪とはならなかった。正義の戦争と不正な戦争との違いは国際法学者の学説の中においてのみ存在していたのである。パリ条約は戦争の性格を変えなかったし、国際社会における戦争に関しての刑事上の責任を問うことは出来なかった。戦争は法の圏外に取り残されたのだ」エジプトのカイロ警察アカデミー講師 アーメド・M・リファート

○「本裁判所は純粋な共同謀議を犯罪とする権限はなく、国際秩序の安全のために純粋な共同謀議という犯罪があると本裁判所が宣言することは裁判所による立法を行うことに等しいであろう」ウイリアム・ウエップス裁判長

○「日本の歴史は共同謀議によって説明できるという考え方と、この共同謀議が侵略的性格を持っていたという考え方が東京裁判の起訴状や判決の前提となった。極東国際軍事裁判所は偏見なしに証拠を検討するつもりなどはじめから持ってはいなかったのだ。そこに基本的な誤謬、東京裁判の誤りがあった」マサチューセッツ州立大学 リチャード・マイニア教授

○「敵戦闘員に対する不公正な裁判を強い、認定される罪を彼(山下大将)に着せ、もしくはわれわれの報復心をぶつけることは…敗軍の敵司令官を処置するために合法的手続きの仮面をかぶった復讐である」フランク・マーフィ最高裁判事

○「祖国を愛するいかなるアメリカ人も、消しがたく苦痛に満ちた恥ずかしさなしには、この裁判記録を読むことは出来ない。…われわれは不正であり、偽善的、復讐的であった。」A.フランク・リール陸軍大尉

○「東京裁判で個人に戦争責任を追及したが、こういうことは国際法では許されていない。東京裁判は間違っていたという認識がいまや世界中の諸国に定着した…」外務省条約局法規課長 伊藤哲雄

○「東京裁判とは裁判の形を借りた「見せしめのショー」であった。日本を犯罪国家と断じて、歴史から一切の栄光を奪い、日本人のプライドを徹底的に奪おうと考えた」上智大学教授 渡部昇一

○「戦勝国による報復劇、戦勝国が敗戦国を裁く。これは人類史上希に見る暴挙です。戦争はどちらが正しく、どちらが間違っているという質のものではない。」アジア経済人懇話会 会長 前野 徹

○「東京裁判はマッカーサー元帥の命令に基づく裁判である。そのマッカーサーが『東京裁判は誤りであった。あの裁判は戦争を防止するうえで何の役にもたたない』と語っている。まして、事後法で裁くのは人権宣言以前への逆戻り、法律にも正義にも基づかない裁判」小室直樹

○「東京裁判は『倫理的に正当』であることを示して、『侵略戦争』を行った『日本国の責任』を明確にし、日本国民に戦争贖罪意識を植え付けることを『目的』としていた」明星大学 高橋史郎教授「検証 戦後教育」

東京裁判による拘束があるのかどうか?

1985年衆議院外務委員会で「戦犯は日本も受入れた東京裁判によって平和に対する罪で処刑されたのであり戦没者とは違う。どうして戦犯を祀っている靖国に参拝するのか」と土井たか子が質問。
1986年衆議院内閣委員会で「サンフランシスコ対日平和条約第11条で…裁判を受諾している事実がある」と後藤田正晴官房長官が述べており、政府の統一見解として東京裁判を認めた。
平成5年には当時の細川護煕首相が「東京裁判の判決を受け入れることで国際社会に復帰した」と公式見解として述べています。

しかし、実際は保守・革新を問わず、国際社会に復帰した日本がまず行ったことが、戦犯釈放要求・戦犯遺族への年金受給という形での戦犯裁判への異議申し立てであった。
1952年昭和27年 戦犯釈放署名運動 4000万人に達する。
山下春江議員は東京裁判を「文明の汚辱」とまで批判した質問を行っている。
昭和28年8月 全回一致で戦傷者戦没者遺族等援護法の一部改正が成立。
さらに「戦争犯罪者による受刑者の赦免に関する決議」を可決。
講話独立後の日本は「勝者の裁き」を拒否することこそが完全独立と世界平和につながると信じた。日本政府は裁判を受諾したのではなく「判決を受諾」したのでした。それ故、東京裁判史観まで受け入れたのではないのです。

再び、東京裁判とは何だったのか?

マッカーサー自体がその誤りを認めているように、戦勝国による「報復」「見せしめ」のための裁判劇であったことは明らかであり、国際法的にもその後のあらゆる裁判に平和に対する罪など適用されることもなく、人類の成果に一向に繋がっていない罪で戦犯者たちは裁かれたことになります。

アメリカを中心とする連合国が善で、日本は悪である勧善懲悪の政治的裁判劇はもっとも幼稚な知的怠慢の結果であり、講和条約成立後は多くの疑問が内外から向けられ、前述の識者たちの意見を読めば東京裁判の問題点が浮き彫りになり、アメリカ以外の国ではほとんど支持を失って行きました。

しかし、日本では占領政策と反日知識人・マスコミの大合唱の下で、日本贖罪の意識の浸透は根深く、連合国=民主主義国、同盟国=ファシズムの図式のもとに断罪され、戦後は善で戦前は全て悪のような決めつけがまかり通ってきました。

欧州でのドイツ・イタリアの戦争とアジアにおける日本の戦争の位相はかなり異なり、事後法によって日本の侵略が共同謀議とされるならば、欧米のアジアに対する殖民地支配も同罪として裁かれなくてはならないはずです。

「大東亜戦争」によって結果的にはアジア各国の独立をもたらしたことは事実であり、日本が資源を持たざる国として「欧米と同様に帝国主義化」して行ったことの全てが悪いと断罪されるのはあまりにも一方的だと言わなくてはなりません。

日米開戦の背景にあるアメリカの狡猾な日本追い込み作戦はその後の情報の公開によって明確になって来ましたが、終戦直前に行った大空襲や原爆投下の非道さなどは、どう思案してみても人種差別も含めた深い人類への冒涜であり、近い将来にはもっと巨視的な視野でアメリカの罪も裁かれなくてはならないときが来ると思います。

しかも、講話条約後に4000万の署名と国会の決議で戦犯裁判を批判し、「A級戦犯」と称される人々の名誉も回復したのですから、靖国神社への合祀は国民の総意に基づくものでもあり、いつまでも東京裁判に呪縛されて思考し続ける必要は全くないと言えます。

そして、A級戦犯の合唱の前に全く忘れられがちなのですが、アジア各地でBC級戦犯として1000人以上の人たちが、日本の戦争責任を背負って処刑されたのだということを忘れてはならないと思うのです。 つまり、「戦争責任論」が今でも多く語られますが、8月15日に心ある日本人が300人も自刃し、5300人近い人たちがその後の見せしめ裁判で罪に服しているのです。

戦争の責任はいかなる基準をもって裁かれたのかはそれぞれによって異なりますが、あきらかに責任を追って倒れて行った人たちがいるのですから、当時の国会はその人たちも戦死として認識し、靖国神社に受け入れたのです。