
西松事件・農業に思う・国防・日本の姿
西松事件
小沢一郎氏がマスコミをにぎわしている中、ずいぶんの前になるが、竹下登氏が自民党の組織委員長に就任した時のことを直接語ってくれたことがある。当時、派閥の領袖・田中角栄氏は、派閥に属する議員が自分で金をつくることを禁止していた。そのせいだろう。当時の田中派の議員は書生のようなタイプの人が多い。その点、福田派でも大平派でもみな一騎当千の人材が集まっていた。田中派議員は奨学金を貰って代議士学校に通っていた、という感じだ。田中軍団と言われた理由もこの辺りにあるのだろう。そんな中で、竹下氏は自分の時代を切り開こうとしていた。しかし、順番で言えば、二階堂氏など上には大勢いる。そんな時、組織委員長になり、地方の金持ちとつながりを持ち始めた。派閥のお目付役の目に届かないからだ。そのようなことから始まり、最後には力で角栄氏の持っていた土建屋とのつながりを獲ってしまった。土建業界、建設業界というのは現実そのもので、その時、便利に使える国会議員を使う。だから業界を使ったのか、業界に使われたのか、よく分からなくなってしまう。この業界を使うとお金は作りやすいが、あとはろくなことにならない。
西松建設は、談合の元締めみたいな役を大阪でもやっていたと記憶しているが、西松が責任をもって業界を代表して小沢氏を使ったのだと思う。小沢氏に流れたお金だって、西松だけのお金かという疑問もある。あの業界の体質は談合の世界だから、西松だけが儲けるということは絶対ない。
検察は
検察の意図は何処にあるのか。自民党が仕掛けたとか、国策捜査だとか言われているが、真実は分からない。
朝鮮総連の土地の問題で、元検察のトップが逮捕されたということがあった。検察が力を持ち過ぎた結果、迂闊にもあのようなことをしてしまう。検察も大マスコミのように何かをしていなければ喰っていけない組織になってしまったのだろう。世の中を検察がリードするため、ポイント、ポイントで世間を驚かせる。西松事件は、多分この時期を狙ったのだと思う。
有名政治家の秘書も、新聞記者から「同じようなことをしているのではないか」と取材されたと聞いている。カネを集めることで有名になった人はマスコミも大きく扱いたいし、検察も大きく扱いたのだろう。
マスコミは
民主党のことも自民党のことも、日本のことも何も考えないのが検察とマスコミだ。両者とも巨大怪獣となってしまった。ところが、マスコミはインターネットに追いまくられ、青息吐息の状態だ。
最近、インターネットでは麻生首相は人気のようだ。彼の本がずいぶんと売れている。インターネットで人気の麻生首相をマスコミは追い落としにかかっているという構図だが、早く選挙で稼ぎたいというのがマスコミの本音だろう。
マスコミ被害にはひどいものがある。ソマリア沖の海賊対策では社民党ともくっついているし、サンケイ新聞が朝日新聞のようなことを平気で書いている。産経も苦しいのだろう。「小沢さんが、済州島を買ってしまえ」と言った、と笹森氏が講演で話したと書いている。小沢氏の立場が微妙な時にサンケイ新聞がこのようなことを書く。批判の矢面に立たされている小沢氏に、更なる逆風を、という意図が感じられる。ドブに落ちた犬は棒で叩けと言うことか。囲みと記事に整合性がとれていないこともある。大新聞は辛い時代なのだろう。
政治だけじゃなく、経済でも、マスコミは弱いところをたたく。高校野球は叩くがプロ野球は叩かない。一部上場企業がスポンサーのラグビー協会は叩かないが、NHKにしか顔を向けない相撲協会は叩く。刃向かってこない奴だけを叩くのが大マスコミだ。かつての日本にはこのような風潮はなかった。
農業に思う姿
アメリカ発の経済不況が世界に蔓延、日本も未曾有の経済不況に陥っているさなか、職業につけない人を農業分野へという動きがあるが、何故農業なのかということを言わない。失業回避の手段という発想のようだ。
農業というのは精神衛生上非常に好ましい。大半の人が自給自足の生活をして、余った農産品を物流に乗せ、余った時間を他のことに費やす、というのが日本人の本来の姿だったと思う。回りにも「メダカの学校」や農業に帰りましょう、といろいろなことをしている人がいるが問題もある。その最たるものが、日本は外圧に弱いということだ。それが日本の農業を弱体化させている最大の原因といえるのではないか。
アメリカから入ってくるニュースしか日本では報じられない。アメリカの生活というものにいまだに憧れを持ち、アメリカには農業などないと思っている人さえいる。しかし、アメリカは農業国家だ。例えば、トヨタ自動車が世界を席巻しているけど、米トヨタ社の社長はアメリカ人で、トヨタのアメリカでの自動車販売がどれだけ日本の繁栄に寄与しているのか。逆にトヨタの車をアメリカが買っているから日本はアメリカの農業製品をもっと買えということになってはしないのか。
トヨタなどの世界戦略を展開する企業が日本の農業を奨励し、守ることに尽力していただきたいとつくづく思う。日本の農業技術を世界に輸出するような取り組みがあってもいいのではないかと思う。日本式の農業、近代農業技術を一式輸出していくことがあってもいいだろうと思う。
今の人は戦前の歴史を学んでいないが、日本は韓国や台湾、満州でやったことは農業を広め、その国を自立できる形をつくった。形ができたところで戦争に負け、植民地云々といわれるようになった。日本が満州に開拓団を送り込んでいなければロシアが入ってきた。ロシアは日本のようなやり方はしなかっただろう。
国防
国を護る基本は防衛力だ。防衛力を保つためには戦闘力が必要で、戦闘力を保つためには、良い武器と使いこなす人材の身体的能力と精神的能力、つまり、訓練と愛国心、忠誠心といったものが必要だ。それが国防というものだ。ところがいまだに社民党的いい加減な平和論が介入してくる。
世界が経済で食うか食われるか、という時代にサミットとかG20に日本は参加するが、軍隊は未だに蚊帳の外だ。では、軍隊でいうサミットとかG20に相当するものと何か。今はソマリア沖の海賊対策だ。ソマリア沖は、世界の軍隊のサミット会場だ。軍隊が動けば、そこは観戦武官がおり、自国の国防の一助としている。
ソマリア沖は海のシルクロードみたいなもので、エネルギーの大半がそこを経由して日本に運ばれている。エネルギーロードと言ってもいいだろう。そこで、世界の軍隊が地球防衛軍となり、日本も出ていく。これは世界の常識だが、その常識を覆す非常識がわが国の常識だ。異常事態と言わざるをえない。世界で共通の軍隊行動に参加したくない。参加して日本に帰ってくれば余計な法律があって裁かれかねない。下手なことを頼まれれば厄介だな、ということのようだ。
今の時代、大国だけが核を持ち、その国が国連の主要な位置を占めている。そういう時代に、日本の軍隊が戦争を起こせる筈がないということは社民党でもわかっているはずだ。中国だって日本と戦っても日本に核を使う訳にはいかない。だけど、本当に戦ったとき、核を使うかもしれないという国の方が、政治的な意味で強いに決まっている。その時、酷い目にあった日本人が、「やっぱり核を持とう」と言った時、その核は恨みの核になってしまう。本当に恐い核とはそのような核だ。
アメリカは日本に原爆を二つ落としているが、その後の友好(贖罪)政策にどれ程のカネをつぎ込んだか。
米軍の基地が日本にあったが故に朝鮮戦争やベトナム戦争で潤った。その背景にはアメリカの対日贖罪意識というものがあったことは否定できないのではないのか。このところ、アメリカのやっている戦争はアフガニスタンやイラクなど遠い国なので、あまり良いことはないが、間接的にはトヨタの車が売れるとか、何がしかの潤いを受けているだろう。社民党が本気で日本軍の派遣に反対ならば、イラク戦争の現場に行って、日本製品をチェックしてみるなどの調査をし、「このような国で車などを売るのは怪しからん」というような論陣も張るべきではないのか。
自分の国を自分で護っていない国の特徴を実に良く体現しているのが社民党と言えるのではないか。食糧だって護っていない。社民党はアメリカを頼りとした平和だ。アメリカに逆らうことが一番の不幸な事態だと思っている。しかし、アメリカだって、「言い加減、自立してくれよ。こっちの言い分もきいてくれよ」という形になってきている。日本が何時までもグズグズしているから、馬鹿にされ、カネを出せということになってしまう。今はカネがあるからいいが、なくなってから目覚めても遅い。
これからは国と国との戦争という図式が大きく変わりつつある。国の制式軍隊が出て来る前に麻薬王やテロリスト集団が跋扈し、国と無国籍軍、宗教軍との戦いという様相になってきている。そのような、時代には必ず海賊も跋扈していることを歴史が教えている。ある意味隙間産業なのだろう。
時代は大きなうねりをあげて変遷の途上にある。国防は如何にあるべきか。真剣に考えることを、世界から突き付けられている。それがPKOであり、ソマリア沖の海賊対策であり、インド洋上における給油支援だ。自国を護る軍隊として世界の環に、法律上でも国際法に則って、参戦ではなく、参加していくということの大切さを先ず認識すべきだ。ところが、多くの日本人は参戦と参加の区別もついていない。平和に過ぎればいいけど、日本は敵性国家に囲まれている現実から逃避することはできない。
国防には国際協調という側面も必要だが、これも日本人は苦手としている。国際連盟脱退が印象に強いせいか、国連をどのように使ってやろうか、という人材もいない。国連で「もうカネは出さない」くらいの演説を誰かしてくれれば、日本の国連での地位は格段に大きくなると思うが、松岡の国際連盟脱退演説と重ねて考える馬鹿がいる。なますもいい加減それだけ吹けば凍ってしまうと思うのだが。
ヨーロッパ社交界の歴史は、戦争や人殺し、牛泥棒や羊泥棒、娘が目の前で強姦されたなど、そのような積み重ねの中で、「今日はボディガード抜きで話し合いましょう」という智恵から始まった。欧州の外交、社交界は夫人同伴外交だ。これは相手を失礼じゃない形で、非常に警戒しているということだ。日本人は馬鹿単純なところがあって「そんなことはないだろう」と思っている人間が多い。毎日、道で出会う女性がいたとする。一年もすると声をかけるくらいにはなる。きれいな言葉で言えば、恋仲にだってなることがある。しかし、それが仕組まれた罠で、相手はプロのスパイであったなら、洗いざらい、情報はもって行かれてしまう。戦後の日本人はじぶんたちが手を出さなければ、相手は悪いことはしないという教育をされすぎた。戦前とは真逆な失敗をするのではないか心配している。国際協調の裏にはスパイが跋扈しているという現実認識も必要だ。
日本の姿
日本には、日本としての確たる道があるということを指導者は認識し、自らそれを磨いて行けなければならない。確たる道とは、君が代、日の丸よりも御皇室に如何に寄与し、意識を集中していくかということだ。それがないがしろにされると道徳的にも常識的にもおかしくなってしまう。
アメリカでは、例えば、ベトナム戦争の時、従軍させることによって上手に国民に仕立て上げている。日本も外国から人を入れてもいいのだけれど、どのようにロイヤリティを持たせるというかということが欠落している。
踏み絵と言ってもいい、ボランティアと言ってもいい、ボランティアの最たるものが軍隊だからだ。そのような忠誠心を育てる場をつくるところからはじめなければならない。
選挙を見ても、戦前は国に命を捧げたということを象徴的に示す徴兵検査の年から選挙権を与えている。ある意味、命の引き換えの選挙権だ。当然、一票の重みが違う。
日本国民と言ったら、天皇陛下の顔が浮かんで来なくてはいけないのに、麻生さんの顔が浮かんできた。小沢さんの顔が浮かぶ、というのであれば命などかけられない。明治時代、国民は西郷さんや大久保さんの名前では命をかけていない。明治天皇が自ら率先して、衣冠束帯を脱がれ、西洋式の軍服を着て臣民の前に現れた。そういうことにみな命をかけた。
ところが、民族派と話をしていても戦後教育を受けているから、国家や民族ということは理解しているようだけれど皇室というのが分からないようだ。
日の丸があって君が代があって、陛下のお座りになる玉座が見当たらない。それが戦後教育だ。陛下が玉座にお座りになり、左右に君が代と日の丸があるという形が崩壊してしまった。
今、どこの国をみたって、国歌と国旗で済んでしまう。これではオリンピックだ。日本にはかけがえのない御皇室があるということをいちいち説明が必要だ。
アメリカには星条旗があり、それに忠誠を誓い世界にアピールする。このアピールする能力にも日本人は欠けている。テポドンで日本人はハッとしたけれど、世界にアピールしなかった。外務省、マスコミの責任だ。中国は、日本に言いたいことがあれば、先ず、アメリカのマスコミで世界に発表してしまう。そのようなしたたかさは日本人にはない。これなども教育で克服できる問題ではないのか。
祝日に日の丸を掲げれば、となり近所に「右翼か」と思われる社会に成り下がってしまった。アメリカ社会では少なくとも7割は日曜日になると教会に行くが、今の日本人にはそのようなものはない。神社仏閣への参拝を四季の参拝とお葬式ぐらいだ。しかし、アピールすべきものはアメリカなどとは違い、極めて多い。皇室や文化遺産、歴史等世界がうらやむべき宝庫だ。
明治維新前、日本の金はあらかた西洋に簒奪され尽くした。グラバーなどの第一陣は良い思いをした。第二陣としてアメリカが乗り込んできた。その時、アメリカは、日本にはまだまだ獲れるものがあると思ってきた。しかし、西郷などの日本の指導者は、日本の金が全部持って行かれたことに危機感を抱いていた。
勝海舟のような幕臣も現れ、危機感をバネに一致して明治維新というものが奇跡のように実現していった。薩摩や長州の積年の恨みというものも底辺にはあっただろうが、外圧に対する危機感ということのほうが強かった。
日本の外国に対する恨みは万延元年から昭和20年の8月まで続くわけだが、日本も日清、日露で勝っているところで、戦争を終えることができた。当時の指導者は、戦争終わらせるための外智努力も合わせて戦争指導していたからだ。
乃木大将は明治天皇に殉じて切腹したが、乃木さんにしてみれば、乃木が認める本当の侍というものがいなかった。士官学校出などは西洋被れとしか、見えなかったのだと思う。
その後、軍人としては優秀ではあったとしても、西洋式のものの考え方になっていった。武士の教養を身につけていた最後の人物が乃木さんだったのかもしれない。それを厳然たる事実として裏付けているのが、学習院の院長に推挙されたことだ。
また、侍の時代から近代軍にいたるまでの教育を受けた。武士の生身の生き様を持った人で、近代戦争の何たるかを知っていた人だ。今に当てはめると、現代のグローバルと言われる経済戦争の中で、生き方ということについては、首相でも、トヨタの社長でもそれこそ竹中氏でもある程度は分かるだろうが、そこに日本的な侍としての矜持というか、日本人としての生き方をしているのか、ということだ。官僚や政治家は国家サービス業だが、日本人として矜持を持ち合わせた人材がいないということだ。火事の無いとき消防士の格好をして、火事というときには消防士が一人もいないというのと同じだ。
昔、どうしようもない奴らが、町火消しになった。「江戸の華」という教育を受け、火中に飛び込んで行った。人間の喜びを何処に求めるかという教育のあり方が、勇敢な町火消しを生んだ。
線路に落ちた人を助けるために自らを犠牲にした韓国人がいたが、あれは、とっさに体が反応したのだろう。あれが韓国人の生き様であり、死に様になった。教育の有り様が、日本が韓国に負けているということだ。あとから言われると分かるが、その時、体が動かない。相撲など稽古豊富な力士の足の裏には目があると言うが、それと同じだ。
男子たるもの、全員が柔道とか剣道、K‐1でもいいし子供のころからそのようなものに、単純に夢を持ってもらいたい。その後で、俺は東大を出て国を動かすとか、新聞記者になって社会正義を訴える、とか我々の頃にはそのようなことがあった。そのような夢はあったから未来に希望を抱くことができた。
ところが、戦後教育は知育ばかりを強調し、逆に知識不足の若者を生んでいる。平均的教育レベルは世界的でもエリートが育たない。その点、戦前の教育はバランスがとれていた。
最近、いろいろな新興宗教に入っていく人がいるが、徳、あるいは精神世界に飢え乾いていることの現れなのかもしれない。旧来の宗教では埋め合わせられない安心立命とでもいうべきことを求めているのだろう。新興宗教の教え自体は先人の知恵の受け売りだが、教え方におかしさもある。創価学会の新聞などそれを如実に物語っている。自らを語る時には美しい言葉を使っているが、ひとたび敵、例えば、大石寺とか矢野元公明党委員長などが標的になると宗教とは無縁のはずの罵倒するような言葉の羅列になる。こういうところに、日本の精神離れ、金に近付きたいという卑しい民族に成り下がった面が露呈される。
アメリカから学ぶことがあるとすれば、出自の違う人たちを如何にまとめるかという文化力だ。アメリカは考えも文化も違う民族が集まっている国だ。例えば、大リーグは日本からも韓国からもキューバ、ベネゼエラ等の国々から選手が集まって成り立っている。アメリカ人がそれに入っていたとしても、二代前、三代前の人は何処かという国だから、それをいかにまとめるかが国家存亡の命題だ。それを学んだ上で、日本人の古来からの考え方を世界に発信しなければいけない。しかし、神道などだれも世界に発信していないのはないのか。説明ができない。説明が出来なければ、キリスト教に対して神道かと思われてしまう。どうして神道の国に、仏教もありキリスト教もあるのか。どうしてそのようなことができるのか、という説明ができない。神道はキリスト教に対して悪い宗教だということになってしまう。それが60年前の姿だった。今、その立場に立たされているのがイスラム教だ。
アイヌとかチベット、ウイグル自治区などについてはやけに人情を発揮する日本人だが、世界における日本民族というものを落ち着いて考えられない。それまた、日本人のいい面、悪い面が渾然としているのだけれど、自分のことを後回しにするとか、自分のことを表に出さないということでは、あらゆる面で国際競争力が試されている現実に、宣伝戦に負けていくだろう。本当の日本人の良さというのは確かに自分を主張しない。良い物を作って、データを出して、品物を見せて、「どうですか」というのが日本人の良さだ。だから日本製品が売れる。嘘をついてまで売ろうとはしない。しかし、そういう面の良さが足を引っ張って、トヨタの車を買ってやるから、食糧を輸入しなければいけないと考えてしまうし、アメリカなどはそのように日本に押し付けてくる。つまり、日本人は世界から不幸な立場に追いやられているのに、「チベットが可哀相だ」という。アメリカに護られているのではなく、アメリカに蹂躙されているこの国の何処に、本当の意味での人権があるのか。人権という名の下で、民族が犯されている。アメリカの最も得意とする戦略だが、それに日本は犠牲となり、加担までさせられている。確かにトヨタなどが儲けるから国が栄えていったのだが、負の部分にも目を向けなければいけない。日本的なものに目を向けなければならない。